北条高時腹切りやぐらに来たのですが……ここもまた通行止めになっている。
一応がけ崩れのおそれあり、が理由ですが、本当のところは違う。
いわゆる心霊スポットとして、有名になってしまったのです。
やぐら とは、鎌倉から三浦半島に広く分布する横穴式の墓のこと。横穴墓自体は日本に広くあるものですが、この地域ではやぐらと呼ぶのです。
このやぐらがある手前は、かつて東勝寺という寺があった。鎌倉幕府終焉の地です。この広場がその東勝寺あとです。
北条高時は、鎌倉幕府最後の執権です。得宗家、と呼ばれるようになった北条本家は、権力と利権を北条家へ集中させるあまり、本来の幕府の機能であった武家同士の紛争解決や裁判ごとに不公平が目立ち始める。そして全国の武士の間に不満が高まっていく。
高時は倒幕運動を企てた後醍醐天皇を島流しにし、続発していた反乱鎮圧に躍起になります。その一つが楠木正成の反乱でしたが、それに手こずっている間に足利高氏、新田義貞も反乱を起こし、収集がつかなくなる。
1333年5月18日、新田義貞は鎌倉へ攻め込む。
覚悟した高時は、一族800と数十名をつれてここ東勝寺へ逃げ込み、全員自害したのです。
鎌倉幕府は創立時も血なまぐさい事件が多かったですが、終焉もまた血なまぐさかった。800人以上の一族が一か所でまとめて自害するなんて事件は、この前後に起きていません。当時の常識から言っても大事件だった。
奥に見える横穴がやぐらです。
いつからから、立入禁止になってしまった。心霊スポットとして取り上げられ、有名になると、アホが集まってくる。
夜中にやってきてキャーキャー騒ぐ。そうして現在は立ち入れないのです。
もちろん、北条高時が腹を切った場所はお寺の中で、洞窟の中じゃない。近い、というだけで関係ないやぐらなのですが、心霊スポットにされて迷惑でしょうなあ。
この後味の悪い事件後、後醍醐天皇は、高時に「徳崇大権現」という神号をさずけ、盛大に供養の儀式を挙げる。
高時一族のたたりが怖いというのもありますが、この大事件にけじめを付け、終わらせておきたいという意図もあったのでしょう。
荏柄天神社に到着。
荏柄天神社は、平安時代1104年の創建と伝わります。当初ここの地名はエガヤだったようですが、やがてなまってエガラへなった。
天神ですから当然祀られる神は菅原道真です。
縁もゆかりも無いこの地に道真が祀られるようになったきっかけは、1104年のある日、雷鳴が鳴り響き、この場所へ雷が落ちた。すると黒い天神の姿が地上に描かれたというのです。
どうも、ここにカミナリが落ちて地上に「絵が描かれた」ということからカミナリの神を祀る事になったらしいのです。たしかに、落雷で木や地面にある種の模様が描かれるという現象は実在する。それを古代の人々は神の描いたものと考えた。
道真は死後タタリ神となり、京都に雷雨を降らせたとされています。なので道真をカミナリの神と見るんです。
時代が下って鎌倉時代初期、鎌倉の「鬼門」を守護するために改めて祀られ、整備拡大したらしい。その後、鎌倉幕府や室町幕府、北条氏や徳川氏に保護されてきました。
この本殿は、1316年鎌倉時代に建てられたものが、江戸時代初期に移築されてきたもの。古い建物がほとんど残っていない鎌倉では最古クラスの建築となる。
もともと鶴岡八幡宮の若宮社として作られた建物で、1622年に移築されたことが記録から判明しており、その後何度も修理されてきた。関東大震災では建物が大きく傾く大損害を受けており、昭和に大規模修理を受けている。本来なら国宝でしょうが、移築されたものであること、昭和に大修理していることから重要文化財に指定されています。
中にある神像(菅原道真像)には「弘長元年(1261年)5月8日 荏柄神主 平政泰造立」の銘があり、鎌倉時代製作の像だとわかっている。建物ともども鎌倉最古クラスのもので、重要文化財です。
鎌倉宮にやってきました。ここにはちゃんとした駐車場があった。境内も広々しています。
この神社の創建年代は、明治2年ですからめちゃくちゃ新しい神社です。
祭神は、実在の人物。大塔宮 護良親王です。
後醍醐天皇の子である護良親王は、読み方が変わった。歴史上の人物で最近読みが変わった人物の一人です。僕が若いときは「だいとうのみや もりながしんのう」と読んでいましたが、いつの間にか「おおとうのみや もりよししんのう」に変わっていた。
この地域では、鎌倉宮を古い読みに従って「だいとうさん」と呼ぶと言われます。
彼は後醍醐天皇の倒幕計画にしたがい、文字通り天皇の手足となって各地を転戦した。戦い、隠れ、逃げ回り、大変な苦労でしたが、彼は鋼鉄の意思をもっていた。鎌倉幕府が倒れて後は、征夷大将軍となります。ようするに朝廷の軍事部門のトップとなったわけです。
当初から足利尊氏を危険視しており、建武の新政の崩壊と南北朝分裂は、後醍醐天皇というよりも護良親王と尊氏の対立に端を発しているといえる。尊氏の謀略というより、親王の政治的孤立によって親王は失脚、鎌倉に流されるのです。
後知恵ではありますが、これは後醍醐天皇の最大の判断ミスとなった。
護良親王はここ二階堂の東光寺に幽閉されます。当時鎌倉を管理していたのは尊氏の弟直義でしたが、彼は中先代の乱が起きたどさくさに紛れて親王を暗殺する。先々、足利家の敵となる可能性がある人物を排除したわけです。尊氏がこの件に関与していたか?が問題となりますが、一般的には直義の独断とされています。
鎌倉宮は、その東光寺跡地に作られました。
祀られるのは護良親王のほか、幽閉時に付き従って世話をした南御方という女性、そして吉野山で親王の身代わりとなって死んだ村上義光の3名。いずれも無念の死をとげた、いわゆるタタリ神になりかねない人々ですが、それを転じて鎌倉の守り神とした。
タタリ神を地域の守り神として祀る。これは各地に例があり、最近参拝したところだと金刀比羅宮に祀られる崇徳院がそうですね。
護良親王って、死後も伝説的逸話が多い人なんですよ。
親王を暗殺した武士は淵辺義博というのですが、彼は親王の首を取ったものの、その形相の凄まじさに恐れをなし、首を捨てて立ち去ったという。その首を拾ったのが、雛鶴姫とも呼ばれる南御方。彼女は親王の子を身ごもっていましたが、ただちに親王の遺体を埋葬し、首を持って逃走した。
姫は今の山梨県都留近くの山の中で急に産気づいた。そこで出産し、彼女も赤ん坊も死んでしまったのです。その場所には現在雛鶴神社があります。供の者が姫と子をその場に埋葬し、親王の首を持って坂を下り、そこで首を隠したという。それが石船神社で、神社には今もなお親王の首が伝わっている。
護良親王の首は現存するのです。頭蓋骨に粘土で肉付けし、金箔を押したものが定期的に公開されている。それが本物の護良親王かどうかはもう確かめるすべがなく、あくまでも伝承です。
杉本寺へ到着。ここは今日の寺社のなかで、唯一拝観料を取るところですが、本堂に上がって仏像を見られるのでけして損ではない。
ここ杉本寺は、伝説的ではありますが、鎌倉最古の寺とされています。創建は731年(天平3年)で、行基がここを訪れ、観音を置くに適した場所と見て自ら十一面観音を彫ってここに安置したと伝わる。
734年には光明皇后の命によって藤原房前と行基が寺を作ったのが本格的な杉本寺の創建です。関東東北には行基伝説が数多くて、果たして本当かな?と疑問ではありますが、とにかく奈良時代に創建された寺だということらしい。
その後、慈覚大師円仁や恵心僧都源信もここへ訪れている。割と奈良時代創建というのは真実味がありそうで、鎌倉最古の寺というのはたぶん本当じゃないか。
鎌倉時代には大倉観音堂と呼ばれており、源頼朝も参拝している。
なんどか火事で焼失していますが、この本堂は江戸時代前期1678年の建築です。
なかにある本尊十一面観音立像は、秘仏です。とはいえ、薄暗い奥にうっすらと姿を見ることができました。平安時代の作と伝わってきましたが、調査によると鎌倉時代のものらしい。それでも鎌倉最古クラスの仏像です。
なんどか燃えた寺ですが、仏像はさほど大きくないお陰で持ち出しに成功し、今に伝わっている。
十一面観音以外にも数多くの仏像が残っており、運慶作とされるものもある。
創建時期の古さといい、古い仏像の多さといい、鎌倉でも見どころの一つでしょう。
これだけ寺社をまわっても2時間。
鎌倉は狭い中に神社仏閣が集中しており、お得感がある観光地ですな。
ただ、強調しておきたいのは、鎌倉は自動車で観光する場所じゃないってことです。とにかく道が狭く、混雑し、駐車場がない。
今日参拝した寺社で駐車場ないし駐車スペースが有るところは鎌倉宮だけでした。それも大して車を停められるわけじゃない。
海岸線の景色といい、車で来たくなる気持ちはわかりますが、渋滞にハマるだけです。とにかく道が狭く複雑で、駐車場はほとんどありません。コインパーキングも少ないです。だから、車で来たとしても藤沢あたりに車を停め、電車で鎌倉入りし、あとはレンタルサイクルや江ノ電やバスで見て回る。それがベスト。
何度も書きますが、車で来ても停める所ありませんよ。
そして、観光地はみなそうかも知れませんが、昼食を食おうと思ってもどの店も行列。
数カ所まわってみたのですが、どこも大混雑。とても食えない。藤沢の方まで戻って、コメダで昼食でした。
平日ならまだ大丈夫かもしれないが……困ったものです。