リノホテル京都で朝5時起床しました。京都は神奈川よりちょっと夜明けが遅い。7時5分前が夜明けです。外を見ると、遠くの山が白いな。
朝食は7時から。
例によって野菜多めに食べるよう心がける。
今日は時間にかなり余裕があります。9時前までホテルでゴロゴロして、歩いてレンタルバイク819へ。
本日借りるのはヤマハ ジョグ125です。どうせ2,3時間しか乗らないし、スクーターでいいやと思った。
まず京都国立博物館へ。無料の駐輪場があります。
まだ開館時間までちょっとあるので、先に近くのお寺へ向かいます。
博物館のお向かい、妙法院に来た。
と言っても、ここは今修理中です。まだ2年くらいかかるらしい。
皇族が住職となるしきたりがあった、格式の高い寺を門跡寺院といいます。ここ妙法院も門跡寺院のひとつ。
創建は平安時代初期、天台宗の最澄によるものです。
立地は文字通り京都のど真ん中、すごくいい立地です。
向かいに京都国立博物館、隣には智積院があり、斜向かいには三十三間堂がある。また、平安時代末から鎌倉時代初期に権力を握った後白河法皇の住居、法住寺殿は博物館の敷地にありました。京都の中心部といっていい場所です。
後白河法皇は出家の後、妙法院の座主になっていた時期もあり、この時に妙法院は歴史の表舞台に出てきます。立地的に言っても京都の権力と無縁でいることはできず、つねに政治の舞台となってきました。
しかし応仁の乱の戦火から逃れることはできず、他の京都の寺社同様乱で焼失してしまいます。いっときほぼ消滅状態に陥った。
妙法院が再建されたのは豊臣秀吉によります。同時にここの隣接地に方広寺という巨大寺院を建築し、方広寺大仏は日本史上最大の大仏だったという。秀吉は祖父母の供養のために仏教諸派の僧を妙法院に集め、千僧供養を執り行いました。豊臣家が滅亡したあとは、方広寺と三十三間堂は妙法院が管理してきた。
ところが江戸時代中頃、落雷で方広寺大仏殿が炎上、日本最大の大仏は木造だったために生き残れませんでした。管理者だった当時の妙法院門跡の真仁法親王は大仏の再建を試みましたが、うまくいかなかった。彼はこの心労がたたって早死しています。
この庫裏は、秀吉時代の建築です。このお寺最古の建築で、国宝です。修理中なのがおしいなー
庫裏というのはお寺の厨房兼事務所。先に書いた千僧供養のときにも1000人もの高僧に食事を提供する役割を果たしました。
となりには智積院や三十三間堂があるんですが、何度か来たことあるのでパス。
国立博物館に入ります。ここも入ったことあるんだけど、博物館は展示替えするので何度入ってもいい。
あれーこんな立派な建物あったっけ?僕の記憶にあるのはレンガ造りの隣の建物なのだが、そっちは今は入れないみたいだ。
この敷地は、妙法院のところで書いた通り、方広寺の跡地です。
中はまったく撮影禁止なので画像なし。
三階から見学する方式です。舶来の唐や北宋の陶磁器、考古遺物の土器や銅鐸、そして仏像などなど。
名品ぞろいなのはわかりますが、考古遺物では旧石器や縄文は京都出土のものは置いていない。ないなら無理に置かなくてもいいのでは?
この3日間で数え切れないほど仏像を見ました。正直いうと少々仏像に飽きてきた……
ただ、感じたのは仏像ってやっぱりお寺にあってこその仏像なんだなということ。博物館のケースの中にある仏像って、「彫刻」「美術品」になっちゃっているんですよ。
つぎに東寺(教王護国寺)へ来ました。ここの駐輪場は金とるのか。拝観料もなかなかのお値段。
それにしてもまあ、京都の寺はどこも巨大です。こういう寺を見慣れてるとよその普通の寺はミニチュアに見えるのではなかろうか。
東寺は平安京が作られたのと同時に創建されたとされます。西の西寺と対になる、京の都の守護を目的とした官製の寺でした。
作られてまもなく、空海に下賜され、真言宗のお寺となった。鎌倉時代にさらに発展し、最盛期を迎える。
応仁の乱で焼失かと思いきや、なんとこの寺は焼けていません。しかしその後に発生した一揆でぶち壊されてしまった。お寺が一揆のターゲットになるのは珍しいのですが、当時の寺社というものは支配階級であって、民衆の恨みを買うことが多かったのです。
この講堂は1486年、一揆による焼失からまもなく再建されたもので重要文化財。なかにはすごい数の仏像がぎっしり並んでいた。その多くが国宝です。みっしり並んだ仏像は、立体曼荼羅と呼ばれる。
信心深かった豊臣秀頼によって再建され、今ある建物は大半がその時のもの。この金堂はその時の再建で国宝です。
中には薬師如来と日光月光菩薩立像がある。
京都のシンボルとも言える五重塔。日本一高い五重塔です。
1644年に徳川家光による再建とされる。国宝です。