仁和寺から5分かからない。
石庭で有名な、龍安寺に来ました。
枯山水の庭があることからも分かる通り、禅宗の寺、そして創建は室町時代です。
応仁の乱の主将の一人、細川勝元が作った。
もともとはこの土地は藤原家の一族、徳大寺家のものでした。あの自動車評論家の徳大寺有恒さんはこの子孫なのかなあ?とか思ってましたが、じつは徳大寺というのはペンネームで、全く関係ないそうです。
応仁の乱が発生する20年弱前に完成したこのお寺でしたが、乱で真っ先に焼かれてしまい、焼失。
再建は20年後に始まって、勝元の息子政元が10年ほどかけて作り上げた。
が、江戸時代中期に火事を出して大半焼けてしまい、よそから建物を移築しました。それが今の龍安寺。
明治維新後の廃仏毀釈でも危機に陥り、寺宝の多くを売却してしまっている。
超有名な庭。
実はこの枯山水の庭、誰の設計かいつ作られたかもはっきりしません。石の庭ですから建物が焼けても残るでしょうが、今の姿になった時期がわからないんですね。
この石庭がある建物は本堂ではなく、方丈です。禅寺の僧侶の住居を方丈という。だから本尊とか仏像はここにありません。
本尊がある仏殿やその他の多くの建物は昭和の再建です。江戸時代に焼けて長らく寺の建物がなかったのですが、戦後に再建された。
また、細川京兆家の墓もあります。創建者の勝元、再建した政元の墓もあるんですが、見つからなかった。
石庭じゃない庭園もあります。大きな池をぐるり一周できる。
京都の街中にある、大報恩寺に到着。
大報恩寺、という名称よりも千本釈迦堂という方が通りがいいこのお寺、創建年代は鎌倉時代前期です。承久2年(1220年)、義空という僧によって作られた。
義空は奥州藤原氏、秀衡の孫に当たる血筋で、その30年ほど前に鎌倉幕府によって奥州藤原氏は滅ぼされています。よくそんな人が生存でき、また寺なんか作れたなと思いますが、僧侶というのは別格だったのでしょうか?
千本釈迦堂というくらいですから、本尊は釈迦如来。建物は国宝です。
千本というから千体の釈迦像があるのかなとか思ってましたが、千本というのはここの地名だそうな。
そしてこの本堂が有名なのは、洛中(京の都の市街地)で現存する最古の建築だということです。創建当初の建物が奇跡的に残っている。
鎌倉時代以降、京は何度も戦場となり、焼けています。それをすべてかいくぐり、生き残ってきた。
この柱を支える構造を斗形(ますがた)あるいは斗組(ますぐみ)と呼びますが、この寺にこの構造を用いたのには物語がある。
「おかめ」という悲劇の女性です。
この寺を作ったのは飛騨の匠、長井高次という棟梁でしたが、彼は柱を立てる際に寸法を間違えて短く切ってしまったらしいのです。そのまま建てたら屋根が低くなってしまうし、柱になる大木の代わりは簡単に手に入らない。それを見た棟梁の妻おかめは、斗組を入れて高さを上げたらどうか、と提案したらしい。
無事上棟式の日を迎えた本堂でしたが、おかめは女の助言で寺が作られたことが知れたら夫の恥になると考え、上棟式の前日に自害したと言われます。
夫はおかめの立派な墓を立て、それを伝え聞いた施工主の義空は哀れに思って塚を作ったという。それがこのおかめ塚です。
おかめ、というと「おたふく」とも呼ばれる笑顔の太った女性の面が思い浮かびます。
この寺のおかめとお面のおかめと関係あるのか調べたんですが、関係ありそうでなく、なさそうであるという微妙な関係でした。
笑顔の太った色白の女性は、幸福な家庭の象徴的意味があり、福を呼ぶ縁起物としてお面を飾るという風習は江戸時代に始まったらしいのですが、その女性の面の起源は古代まで遡るらしい。お多福と呼ばれていた顔の造形です。だからこの寺のおかめとは関係ないといえば関係ない。
が、ここ大報恩寺の創建由来のおかめは、悲劇的であると同時に夫を助けた内助の功としても有名になりました。おかめの供養塔は夫婦円満、子宝のご利益があると思われて、信仰の対象になったんですね。そこで供養塔にお多福の面を飾るという風習が生まれ、それがおかめと同一視されていった。一人の大工の妻が、神となった。
日本の信仰にはこういうの多いんですよね。元々全然関係ない対象が、民間信仰のなかで同一視されていき、最後にはさも当たり前のように同じ神様として扱われる。
霊宝殿にも入る。京都の観光は金がかかりますな。
そしてどこも国宝重文だらけです。国宝の六観音像が見られた。
が、どこの寺も建物内も仏像も撮影禁止です。「仏像がありました」と文章で書く以外に伝える方法がないのがもどかしい。この先3日間ずっとそうなんです。
どうも京都の寺社ではマイナーな存在らしいこの千本釈迦堂。お客も少なくてゆったり見られる。仏像もすごく多くあるし、建物も古くていい。ここはおすすめだな。