韮山反射炉に到着。
世界でたった二ヶ所現存する反射炉の一つです。
もうひとつは萩にある。
江戸時代末期、黒船の来航を受けて日本では急速に国防意識が高まりました。江戸幕府は直轄領の下田に、鉄鋼の大量生産を可能にする反射炉を作り始めた。ですが下田には黒船が入港しており、アメリカに反射炉建造を察知されてしまったのです。
急遽、反射炉の建造場所をここ韮山に変更し、安政4年(1857年)に完成させました。
以降7年間、大砲製造のための鉄鋼を生産し、大砲の砲身も製造した。
反射炉とはなんだろう?
詳しい解説が書いてありました。
近世以前の日本の製鉄は、いわゆる「たたら製鉄」です。
砂鉄と木炭を風呂桶や筒のような粘土窯に入れ、木炭を燃やす。鉄が溶けるほどの高温を得るために、フイゴで空気を送り込む。
すると溶けた鉄は比重が重たいので下へ下へと落ちていき、不純物は木炭に付着する。最終的には釜の底に純度の高い鉄がたまります。木炭が燃え尽き、一週間以上粗熱が冷めるのを待ち、底に固まった鉄鋼を取り出す、という方法です。
これは非常に簡単簡素な設備で実施できる製鉄技法で、特に日本を中心に行われてきました。
(ちなみに海外では木炭ではなく石炭を利用する製鉄が主でした)
が、この方法は原料の砂鉄がもともと純度の高い鉄であるから可能な方法です。質の悪いくず鉄を原料とする場合、不純物が取り切れず、溶解を繰り返すたびに純度が下がっていき、鉄の品質が下がります。規模の割に取れる鉄鋼が少ないのも問題になる。刀や道具を作るのには十分ですが、大砲作りには少なすぎる。
幕末、大砲や砲弾を作るために大量の鉄が必要となった。たたらでは間に合わない。
そこで反射炉ってわけです。
反射炉はドーム型の天井をもつ炉を作ります。
その床にくず鉄を入れ、隣で木炭を燃やす。その熱をドーム型天井で反射させ、鉄を溶かすのです。だから反射炉。
構造的には焼き物を作る登り窯などににていますね。
反射炉の床は傾斜しており、溶けた鉄が斜面を流れて来て大砲の鋳型へ流れ込むシステム。
当時製鉄といえばたたら製鉄という伝統的技法しかなかった日本が、いきなり近代的な反射炉を建築し、鉄鋼を生産したというのは驚異です。どうやって幕府が「反射炉」の構造を知り、作り上げたかというと、どうも長崎経由で入ってきたドイツ語の文献がたよりだったらしい。
当時日本は蒸気船の製造も本の情報だけで成し遂げましたし、幕末の偉人たちは本当にすごいものです。
今見る反射炉は、鉄のフレームに覆われていますが、これは昭和に入って崩落防止のためにつけられたもの。
本来はこの鉄枠はないのです。
炉の焚口は今は露天にさらされていますが、本来は屋根がつき、建屋があったのです。
大砲の砲身が置いてある。
この極端に短い大砲は、英語でモーター、ドイツ語でモルチール、日本語では臼砲とか迫撃砲と訳せます。これは青銅製ですね。
80度くらいの上向きに弾を撃って、上から砲弾が降ってくる。元来城壁越しに中を攻撃するために作られた大砲です。
このやや長い砲身は、英語でカノン(キャノン)、ドイツ語でカノーネン、日本語で加農砲となります。直接目標を狙って撃つ、直射砲となる。
溶けた鉄を型に流し込んで大砲の砲身を作る。
一週間ほど冷却してから中の砲身を取り出しますが、この時点ではまだ使えない。砲口の切削、砲身内部の切削と研磨が必要です。
その動力は、川の水をつかった水車でした。
これが水車のあった川です。
切削と研磨には3週間以上かかった。一本の砲身を仕上げるまでに合計40日以上かかったのです。
さて、これで行きたいところには行けました。帰宅しましょう。
それにしても暖かいなー。気温17℃あるよ。
帰り道は来た道を戻るだけ。15時半には帰宅できました。
走行距離は167km。冬場の日帰りツーリングにはこれくらいがちょうどいいですね。