昨年末はツーリングおさめに行きそこね、年を改めてツーリング初めに行こうと計画していました。
ただ、ネックとして寒さと路面凍結がある。
寒さは電熱服でカバーできるけれど、路面凍結は怖い。箱根を越えるにあたり、それが最大のネックです。
そして昨年末の南伊豆ドライブ旅行。
あれこれ段取りが悪くて、行きたい場所食べたいものを少々スルーしてしまいました。それが気になっていた。
1月中旬週末、季節外れの暖かさの予報です。これほど暖かいなら、箱根の山でも凍結の心配は少ない。
朝9時すぎ、Vstrom800DEで出発。朝の気温は9℃、電熱服は必要ない。
西湘バイパス、箱根新道とつなぎ、箱根峠に差し掛かりました。
山の上はやっぱり平地より3℃くらい気温が低いけど、路面はドライ、凍結の心配はありません。
三島へくだり、田中亭へ来ましたが……
田中亭、数年前に初訪問し、すごく美味しくて印象に残った。また食べたい、とやってきたんですが、なんと11時半の時点で15人くらい店外に行列ができてる……こりゃだめかな。
が、すぐ近くにもうひとつ食べてみたい食堂があるのです。
それが光玉母食堂しんちゃん。
いかにも昭和の大衆食堂、という店内です。唐揚げともつ炒めの定食を注文。
美味いです!特に唐揚げは非常に美味い。味噌汁も地場産の味噌っぽくて、とてもうまい。
これはリピートだな。こんな近くにリピート必至の食堂が二か所あるってのはいいな。
そこからすこし南下します。混雑する国道を避けて、県道を走る。
南下して韮山代官所へやってきました。
江川邸とも呼ばれますが、それは江川家が代々韮山代官を世襲しており、代官所という役所でありながらも江川家の屋敷と同義だったからですね。
厳密に言うと、代官所の建物は残っていません。この屋敷の隣に立っていました。
今ある建物は、江川家の私邸です。
江戸幕府の直轄領というのは全国に広く分散していましたが、ここ韮山代官所が担当するのはおよそ現代の中部地方。さらに下部の役所として、あちこちに陣屋がありました。
その代官を歴任してきた江川家は、非常に古い。
その祖先は、平安時代に関東へ入植してきた清和源氏初代まで遡る。その意味では、源頼朝とも肩を並べうる名家でした。当初は宇野を名乗っており、伊豆へやってきたのは平安末期。
源頼朝の挙兵にも加わり、その功績によって江川の地が宇野家の領地として保証されました。代々鎌倉幕府に仕えてきた。
室町時代に江川を名乗るようになり、室町幕府、そして戦国時代には小田原北条家に加わった。そして徳川家康が来ると、そちらに鞍替えする。
まあうまく間違わずに時の権力者に従ってきた、運のいい家なのです。
韮山代官という役職につきつつも、意外に禄高は低かったのですが、代官というのは役得が多い。
正規の俸禄で食っていくしかなかった旗本たちと違い、代官という約得で非正規の収入が多く、そちらに依存して食ってきたわけです。
この韮山周辺の平地は、伊豆国の中枢ともいえる位置です。
向こうには戦国時代の小田原北条家の城郭、韮山城があった。また、鎌倉に移動する前の鎌倉北条家の名字の地「北条」はその向こうですし、室町時代の堀越公方の御所も近く。
代々江川太郎左衛門を襲名してきた江川家で、最も有名かつ才能のあった人物が、幕末に当主となった
江川 英龍(えがわ ひでたつ)です。
彼は後で訪問する韮山反射炉を建造する指揮を取り、その後の大砲製造にも中心的役割を果たしました。また、大砲と砲術を学び、のちに多くの弟子を教える。
ここが「江川塾」と呼ばれた砲術学校の教室です。
ここで学んだ人物は、佐久間象山、大鳥圭介、橋本左内、桂小五郎(後の木戸孝允)、黒田清隆、大山巌、伊東祐亨と、実に錚々たるメンバーです。佐久間の弟子には勝海舟がいますし、孫弟子に当たるわけです。
そして彼は、日本で初めてパンを作った人物でもある。故にパン祖と呼ばれている。
これが日本初のパン焼き窯です。
英龍はパンの保存性の高さに着目し、兵糧として適したパンを作り始めた。
本来のパンはしっとり水気があって、砂糖をつかった甘いものなのですが、水気と糖分は保存性を落とす。そこで彼は工夫し、塩味で水気のない硬いパンを作ることに成功したのです。
それがこれで、今も韮山反射炉の売店で手に入ります。石のようにカッチカチで、とてもそのままじゃ歯が立たない。食べるときは水につけて戻す必要がありました。のちのち日露戦争でも兵糧として使用されている。
英龍の教えた西洋流砲術には射撃を含めた軍事教練全般が含まれていて、幕末に近所の百姓を集めて民兵組織を作ります。彼らに西洋流砲術を教える際、「気をつけ」「回れ右」などの号令を翻訳して使用したのも英龍なのです。
彼はとにかく多才なんです。
剣術も相当な達人で、やくざ者との闘争に参加したし、絵もうまく、坦庵(たんなん)の雅号を持っています。明治維新後は教育の道へ進み、県立韮山高校の元となった学校を作って教えている。
広々とした土間にはパン焼き窯と並んで大きなカマドがある。が、これは料理用じゃないのです。
大鍋には水を入れて、一日中火を燃やして煙で屋根を燻すためのもの。
すごい屋根です。当時のまま保存されています。
台所はこちらですね。
江川塾をひらいていたころには門弟が40人近く寝泊まりしており、食事の用意も大変だったようです。
江川家は明治維新後に東京へ一旦移ったのですが、屋敷を福沢諭吉に売却し(のちの慶應義塾となる)ここへ戻ってきています。そして昭和戦前まで、ここで暮らしていた。
江川家は、平安時代から現在まで直系の血筋が絶えることなく続いています。
現当主はこの屋敷を市に移管し、東京へ再び引っ越している。次期当主は今高校生だそうです。
その江川家の血筋の外見的特徴は、ギョロッとした大きな目。そして高身長です。
幕末日本人男子の平均身長が150センチほどだった時代、英龍は身長186センチあった。現当主も190センチ近い身長だそうな。
玄関前に生えているV字型の木は、なんと伊勢宗瑞(北条早雲)が手植えしたものと伝わる。
宗瑞が伊豆に入ってきてすぐ、宇野氏(江川氏)は服従している。あながち嘘とも言いきれない。大変な歴史を持つ一族なのです。